メカブ(メカPのブログ)

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「はなしらべ」の歌詞を考察する

アイドルマスターミリオンライブ !に「はなしらべ」という曲が有ります。M@ster Sparkleという「改めての自己紹介」をテーマにしたCDシリーズの中の一作で、和を愛するエミリー スチュアートというキャラを象徴するような楽曲です。この記事では歌詞と向き合いながら考えたことを、ぽつりぽつりと書き連ねてみました。



一目惚れしたメロディの美しさ

最初に心を打たれたのはメロディーの美しさでした。心をざわめかせるような、静かで美しくも悲しいAメロBメロの旋律。静かな高揚感を湛えた、柔らかさと広がりを感じるDメロの旋律。当初はそれぞれを別々の情景のように捉えており、ただただ美しい情景に嘆息するような鑑賞の仕方をしていたのですが、歌詞に目を向けることで、曲を一貫して貫くまとまった世界観が見えてきました。

「心すまして」眺める世界

1番の「心すまして」が象徴的ですが、耳をすますように「心をすます」ことで、世界に満ちている美しさに気づき、出会っていきたいという真っ直ぐな思いを歌った歌、という解釈が一番素直だと思います。エミリーの素直で綺麗な心を通して眺める世界はきっと輝きに満ちていることでしょう。世界を慈しむエミリーの瞳を通して、世界の美しさに触れるような歌詞世界。心が洗われるようです。

情景と心情の交錯:「光の指先」について

素直で平易な言葉が続く中、陽の光を表した「光の指先」が比喩的で、一見浮いて聞こえます。ただAメロから追っていくと「水たまり・波紋」という情景描写から「まばたき」という動作を経て心情描写に至り、思い・願いを連ねた後、「光の指先(=陽射し)」という情景描写に再帰する流れが見て取れます。「雨音」の景色から、美しいものに出逢いたいという思い・願いを経て、「光の指先」の景色に出逢う。この景色の変化こそ「心をすます」ことで、エミリーが見出したものなのだと思います。

妄想・裏テーマ:「悲しさの克服」

ここからは深読みなのですが、この曲の裏テーマは悲しさの克服・立ち直りなのだと思っています。
この曲の世界観の主要な構成要素は「花」と「雨」と「光」ですが、この曲の「光」は常に「雨上がりの光」として描写されています。この雨を「悲しい出来事」の暗喩と捉えると、「雨上がりの光」=「悲しみの克服」という見立てが出来ます。可能な反論として「花にとっては雨も必要なもの」という前向きな捉え方も出来ますが、1番2番に共通する構図として「雨」の情景にはマイナーコード(短調・暗い)、光の情景にはメジャーコード(長調・明るい)が対応しており、雨を暗いものと位置づけるような対比構造を感じます。偶然かもしれませんが、作詞と作曲を同じ藤本記子さんが担当されていることからも、歌詞とコードのリンクが意図されたものである可能性は有るかと思います。
「悲しい出来事」についてはDメロにて「いのち結びあい」「ともに生きている」などと直接的に生命に関するワードが使われている点から、死別を連想します。Bメロには「雨」の他に「儚いもの」「ざわめきの日々」等のワードも有り、「頬を包む光のぬくもり」は逆説的に涙で濡れた頬の冷たさを思わせます。また前述の「雨」から「光」への情景変化は、別の見方をすると「近景(水たまり・花)」から「遠景(雲・陽射し)」への情景変化であり、更に言うと「足元への視点」から「空への視点」への変化であり、すなわち「うつむき」から「前向き」への変化です。この曲は俯いていたエミリーが前を向く曲なのではないでしょうか。

様々な解釈を念頭においての、本楽曲の楽しみ方

上記の裏テーマ考察はあくまで解釈の一つで、かなり穿った見方なのだとは思います。ただ今は無垢な心で歌っているエミリーがこの先出会いや別れを重ねて大人になったときに、この曲はまた違った奥行きを持つ曲になっていくのだと妄想してしまいます。歌詞の「めぐる願いが 今 夢色ほころばせる」の部分はつぼみが開いて夢色の花が咲くような情景なんでしょう。エミリーがほころばせる「夢色」の移りゆきを傍で見守っていきたいです。

蛇足気味ながら、答えの出ない「導かれるまま」の主体性について

最後に1サビと落ちサビの結びである「導かれるまま」という歌詞について。これは上記の深読み抜きにしても個人的にストンと腹に落ちないというか、Aメロから一貫して「心をすまして美しさと出会う」「願いが私を織り成してく」という大和撫子らしい芯の強さ、背筋の伸び、そういう真っ直ぐな思いを歌ってきた曲にしては「導かれるまま」という結びは少々主体性に欠ける響きに聞こえました。この点についてまだ自分の中で定まった解釈は無いのですが、いくつか思いついたことを述べてみたいと思います。一箇所の歌詞について、しかも特に明確にテーゼとされているわけでもない「主体性」にここまでこだわるのも妄執的・偏執的だなと自分でも思うのですが……。ここの考察を通じて「悲しみをどのように克服したのか」という裏テーマの深堀りにもある程度迫れると思っています。
一つの解釈としてはタイトルの「はなしらべ」から曲のテーマを花々のしらべ(旋律)=オーケストラと考え、指先=指揮者と考える解釈。昼と夜、春夏秋冬といった太陽の巡り=光の指先の指揮に合わせて変化する世界の中で、命や願いを重ねていくことで生まれるハーモニー(=和音=「和」の音)が「はなしらべ」なんだ、みたいな。ただちょっとここまで考えてきた歌詞の世界観からすると唐突な見立ての気もします。詩的には綺麗なんですが。
先程の深読みに立ち返り、「雨」から「光」までに経由した心情描写に目を向けると、儚いからこそ愛おしい命なのだと諸行無常・一期一会を肯定し、共に生きている今を喜ぼうとする強さが印象的です。そこで「運命の流れ・導きに身を委ねつつも、私の心は今このときのめぐり合わせを喜んでいる」という解釈も可能でしょうか。
また別の視点では、「"ざわめき"の日々」に対する「"静か"に変えてく いつも傍ではなやぐ奇跡」という"騒"と"静"の対置から、いつも静かに傍にあるもの、周りの人々の存在が「光」なのだという点が注目できます。たとえ雨の日であっても雨雲の向こうに常に太陽が有るように、辛いことで胸がいっぱいになって見えなくなってしまっても、周囲からの愛は常に降り注いでいる。それをこぼさずに受け止めるべく心の雲を払う。「光の指先」が「雲を払って 風を分ける」のではなく、「光の指先が導くまま」に自分が「雲を払って 風を分ける」、辛いときに周りがくれるままに愛を素直に受け止める、というそういう解釈も出来るように思います。1サビの「そっと雲を解いて風を染める光の指先」に対し、オチサビでは「遠く雲を払って風を分ける光の指先」というように、若干ながら歌詞に力強さが増していないでしょうか。これは時間経過のためと捉えることもできますが、心情変化のためという捉えることもできるのではないでしょうか。
かように自分の中でも定まった解釈は無いのですが、四季の風景のように揺れる解釈もまた曲の楽しみの方の一つ。エミリーの気持ち、作詞家先生の気持ち、ごヒイキ様方の気持ちに思いを馳せながら、この先も「はなしらべ」という曲に耳を傾けていければ、と思っています。

余談

2020年1月8日に『ビリーバンバンが歌うエミリー スチュアート「はなしらべ」』という動画を投稿しました。「はなしらべ」を深く聴き込んだのはこの動画の制作がきっかけです。
本記事は「エミリーのはなしらべ」についてのものなのでこの動画についてのあれやこれやはここでは省略しますが、書きたいことはいっぱいあるので別の機会に書こうと思います。おそらく2020年の自作を振り返る、みたいなエントリを2021年頭に上げるので、そのときにでも……。ビリーバンバンを知らない人も、興味を持ったら見ていただけると嬉しいです。